みなさん、おはようございます。斎藤です。
2021年12月29日を迎えました。
先日、2021年12月26日(日)に茅原実里さんのラストライブが開催されました。
実に彼女らしい人柄溢れるライブでした。音楽は「人」なのだと改めて勉強させてもらいました。ライブというのはその「人」を観るものなのだなと思ったのです。
歌はイントロと言います。
歌う直前までに起こった全ての事象がイントロであるという話です。今回もまさにそれでした。茅原実里さんの音楽活動の歴史を全て感じながら1曲1曲を聴く体験でした。彼女と関わった時間が長ければ長いほどイントロには深みが出ます。イントロに深みが出るほどに歌われる歌の魅力は増していきます。今回のライブで歌われた全曲にそういう体験がありました。
そして最後に歌った「純白サンクチュアリィ」。茅原実里さんの全音楽活動の全てがイントロとなりこの「純白サンクチュアリィ」が歌われたわけです。
聞く人それぞれの万感の思いがあったと思います。
イントロと言えば。実に茅原実里さんらしい場面がありましたね。
そう。Voyager trainの「イントロ」は強烈でした。ライブをご覧になった方は今もう何を言わんとしているかご理解されていると思います。
観ていない方のために少し説明します。Voyager trainの直前の楽曲のアウトロで茅原実里さんは舞台裏に消えます。そのアウトロは約50秒。そしてVoyager trainのイントロ約30秒が終わると同時に再び現れます。
アウトロ50秒+イントロ30秒。合計80秒。この短い時間で衣装が一変する演出でした。
真っ赤でアグレッシブな衣装から豪華な白ドレスへ。
Voyager trainのイントロで現れた、、、、と思ったら階段を登る際にスカートを踏んでしまい、つまずきました。そしてまた舞台裏へ消えていきました。。。
主役不在で進む演奏。「誰も乗せないでVoyager trainが発車した」のでした。お客様は実に優しくそして暖かく「がんばれー!」という念がこもった大きな手拍子が会場中鳴り響きました。しかし乗客不在で列車は進み続け、、、バンマス須藤さんの判断で演奏中止。
少しの間の後、ゆっくり登場し、お詫びする茅原実里さん。その時、客席は。。。
大フィーバーです。
「これぞ茅原実!」「待ってました!」という空気。僕は音響卓で「これは完全に思い出に残っちゃうな〜」としみじみしておりました。
舞台上でつまづいた状況や裏で何が起こっていたかを説明する茅原さん。「OKだよ!いいよ!これだよ!これ!」みたいな空気の客席。
ラストライブで極上のエンターテインメントを出してきたね、と終演後に僕は茅原さんに言いました。
彼女は笑っておりました。僕も笑っていました。マニピュレーターのハナちゃんは泣いていました。
スタッフ陣。
ラストライブのライブ当日、スタッフ陣はどういうテンションだったのかというと、いつも通りだったように思います。いつもと同様に楽しく一生懸命に仕事をしていたように思います。卒業式のような感じでしょうか。晴れやかで綺麗な時間でした。最後だから何か特別なことをしたわけでもなく、いつも通りのプロの仕事をしていました。いつもと違ったのは終演後にそれぞれが茅原さんと一緒に写真を撮っていたことくらいです。
スタッフの皆さんもそれぞれ終演後にFacebookで気持ちを投稿されていました。ファーストライブから関われて幸せだった。初めてのレギュラー現場がここだった。舞台監督の仕事が好きになったのはこの現場のおかげ。などなど。ポジティブな言葉がたくさん並んでいました。ライブスタッフ以外にもかつてのスタッフさんも投稿されてました。この仕事が好きと言えるのは茅原さんのおかげ、という投稿も。茅原さんは関わった人全員の人生を良くしたんだなと思えました。
CMBの話。
茅原実里さんのバックバンドはCMBという名前です。Chihara Minori Bandの略称です。1stツアーのころはまだ「茅原実里バンド」と呼んでいたように思います。2ndツアーのころか、それ以降か、記憶が曖昧ですが途中から「CMB」と呼ぶようにしました。
茅原実里さんがランティスレーベルでデビューして最初にバンドと一緒にライブをすることになったときのことです。当時の社長に相談してバンドメンバーを決めていただきました。須藤さん、ガンタさんを含めた凄腕メンバーでした。須藤さんはJAM Projectさんのバンドでも活躍されていた方です。若手アーティスト、若手プロデューサーにとっては大ベテランの大先輩です。社長がそんな凄腕メンバーを呼んできてくれたことに何かのメッセージを感じたものです。
僕はライブの時、スタッフ楽屋に居る時間よりもバンド楽屋に居る時間の方が長いです。公演を重ねていく度、なんとなく僕はCMBのケア係的な立ち位置にもなりました。打ち上げの時に先にバンドだけ移動してもらうときは僕が先導する、などのような形です。そうしてCMBと過ごす時間が増えるにつれ、ある感情が芽生えるようになりました。
「バンドにも光が当たるようにしたいな」という感覚です。
ライブ中にバンドにもしっかり喋ってもらうという茅原実里現場独特の文化も、そのような感覚が土台にあったように思います。もちろん茅原さんの人柄があってこそのバンドトークでもあります。
野外ライブの時はCMBに屋台の売り子をやってもらったりもしました。CMBの缶バッジを作ったりも。茅原さんが着替えで袖にハケる時間はバンドの演奏タイムです。この方式は色々なアーティストさんがやっていると思います。僕が若かりし頃、一般観客として観に行ったライブの多くはこの演奏タイムが退屈なことが多かったのです。この時間も楽しい時間になったら良いのにな。と思うようになりました。どうして楽しく感じないんだろうと考えました。1つの答えとしては、僕がそのバンドメンバーのことを知らないからだろうと思いました。知らない方々が演奏しているのを観ても、上手だなという感想以外が生まれないのです。知り合いが演奏していたら楽しく聞けるものです。例えばピアノの発表会で自分の家族が演奏している時間は、他のどの演奏者の時間よりも楽しいですよね。そういうことだなと。
だったらバンドメンバーのことをファンに認知してもらうのが良いのではないか。バンドのメンバーの人柄も良く分かってる状態でバンド演奏タイムを聞いてもらったら良い。そんな気持ちがあり、CMBのことをファンに知ってもらうようにしていきました。
ライブではアーティストがバンド紹介しますよね。それをいつするか。という議論を初期のころにしました。ライブ終盤に「今日演奏してくれたのは・・・」と紹介するパターンもあります。しかし茅原実里現場ではライブの序盤で紹介することが多いです。特にCMBインストコーナーの前には必ず紹介を終えています。それはCMBの人柄を知ってもらった上でインストコーナーを聞いてもらった方が楽しくなるからという考えでした。
CMBが身近に感じられるようになり、CMBのインストコーナーが楽しい時間になる。
そうすると茅原実里ライブそのものの楽しさもレベルアップする。
そうすると茅原実里というアーティストがもっと素敵になる。
そういう考えでした。
地道な活動でしたが大きな実りをもたらしたと思います。ラストライブの全ての時間でそれを感じました。特に終盤の須藤さん1名と茅原実里さん1名の時間はその究極系だったように思います。
2006年から茅原さんとご縁が生まれ今までの15年は人生の青春時代でした。31歳だった僕は46歳になりました。音楽制作、プロデュース、全てのことを茅原実里現場で体験し学びました。頻繁なシングルリリース、大規模なツアー、定期的なアルバムリリース、海外公演、ファンクラブイベント、ミュージックビデオ制作、ジャケット制作、グッズ制作、日々のプロモーション稼動、etc…。この濃密さはなかなか体験できません。
人生のなんたるかも学べたように思います。人の感情について。幸せとは何なのか。そういう哲学めいたことも多いに学びました。たくさんの壁もありました。音楽制作においては当時の副社長に徹底的に鍛えていただきました。何度も心折れましたが、そのたびに強くなれました。副社長と3時間議論して、果ては僕が泣きじゃくって終わるという日もありました。仕事の議論であんなに泣いたのは初めてでした。
たくさんの音楽家の方々と良い仲間になれました。お名前を上げるとキリがありませんが、かけがえのない仲間の皆様です。今思えば副社長の厳しさがあったゆえに僕はたくさんの人に助けていただき、結果仲間になれました。
仲間はどうやったら作れるのだろう。その答えが今なら分かるようになりました。
頼ると頼った分だけ仲間が増えるのです。
壁を乗り越えるためにたくさん頼ったらたくさん仲間が出来たのでした。
バンドでライブをするという経験も、茅原さん現場が初のことでした。バンドメンバーってどうやって集めたら良いのか。スタッフはどう集めたら良いのか。会場ってどうやって抑えるのか。お金はどれくらいかかるのか。僕も初ですし、茅原さんも初ですし、マネージャーさんも初ですし、みんな初だらけでした。1つ1つ先輩たちに教えてもらい、制作スタッフさんに教えてもらいながらやってみました。
ツアー前には各地のイベンターさんに集結していただき、茅原実里とは、今回のツアーの目的とは、、みたいなプレゼンをする、というのも学びました。そこのプレゼンでどれだけ熱を伝えられるかでツアーのムードは大きく変わるのだということも学びました。とにかく初だらけだったのです。
プロデューサーという役職だけど、当時は素人のようなものです。バンドも舞台スタッフもイベンターも全員ベテランクラスの方々だったので、僕はもう正直に「僕はプロデューサーだけど何も分からないから教えて欲しい」と1名1名にお話するようにしました。そうすると皆さん丁寧に教えてくれました。細かいことについても、知らないこと分からないことがたくさんありましたが、全部質問して全部学ぶようにしていきました。こんな細かいことまで聞いたら迷惑では。。。と躊躇しそうになることもありましたが、知らないままで事故るより今お願いして教えてもらった方が良いと思って教えてもらいました。
機材のことや楽器のことも詳しく無かったので、用語から何から全てです。
ウェッジって何ですか。ウーリーって何のことですか。ローズって薔薇のことですか。CO2って二酸化炭素ですけど何のことですか。紗幕ってなんて読むんですか、そもそも何のことですか。ツアー先で手配されるタクシーにその場でお金払わなくて良いのはなんでですか。新幹線を降りたらそこに正確にイベンターさんが待ち受けているのは何気に凄くないですか、どうやってるんですか。ケータリングってどういう意味ですか。楽屋割りってどうやって決めるべきですか。などなど。全部教えてもらいました。
教えてもらえなかったのはアーティストが早替え後につまづいてスカートが外れた時の対処方法くらいでした。今となっては良い思い出です。
デザイナーさんとどう接するのが良いかもこの現場でたくさん学びました。デザインに関することも。カメラマンの選び方、スタイリスト、メイクさんの選び方。何をどう判断したら良いかもこの現場で学んできました。印刷については紙の種類、インクの種類などのことも。デザイナーさんにやる気を出してもらうにはどうしたら良いのかも少しずつ理解できるようになりました。デザインの細かい知識であれこれ話すのではなく、プロデューサーは「熱」を伝えることに徹すると良いのでした。しっかり熱を伝えるとデザイナーさんは凄い力を発揮してくれます。
ミュージックビデオ制作、ライブ映像編集など。映像制作についても。分からないことだらけだったので同じように現場でひたすら質問して教えてもらいました。ここでも正直に分からないから教えて欲しいと言うと、みなさん丁寧に教えてくれました。そしてここでもプロデューサーは「熱」を伝えるのが最善の仕事だということが分かりました。熱が伝わると良い映像になるものでした。
どうしても「プロデューサー」という言葉からは「何でも分かってる人」というイメージが連想されます。でも2007年ころの僕は何も分からないプロデューサーでした。何はともあれ動いてみて、教えてもらって、実践してみて、時々地雷を踏んで、失敗して・・・を少しずつ繰り返していきました。そうして少しずつ勉強させていただきました。
茅原実里さんの音楽にまつわるお仕事を15年やってみて、プロデューサーや音楽プロデューサーという仕事がなんなのかが良く分かりました。お願いして、教えてもらって、力をお借りして、そして全ての責任を背負うという仕事でした。素敵な仕事でした。
思えば、茅原実里さんのプロデューサーを始める時、他社のとある先輩プロデューサーに色々教えてもらいました。その方は業界を代表するようなアーティストのプロデューサーをされてました。アーティストをプロデュースするにあたっての心構えから、非常に細かいことの解決方法まで。ことあるごとにご連絡して相談して、解決方法を教えてもらっていたものです。いつでも快く教えてくれて影ながら応援してくれて、ありがとうございます。
プロデューサーとして自由にやらせてくれた当時の社長、副社長、ありがとうございました。僕が気が付かないところで無限に近いフォローをしてくださっていたのだと察します。大変に感謝しています。
僕が独立した後の立場を引き継いでくれた鈴木めぐみさん、色々な壁がたくさんあったことと思います。本当に感謝しています。また、僕の独立後も茅原実里さんのお仕事において昔と同じような立ち位置で関わらせてくれたことに最大級の感謝をしています。居場所を作ってくれてありがとうございました。
茅原実里さんが活動するにあたり、ランティスレーベルという場所は素晴らしい場所でした。過去から今に至る全レーベルスタッフが茅原さんを支えていたと感じます。アーティストの成長を全員で見守ったチームでした。
きちんと終わる大事さ。
12月26日は幸福感に溢れる現場でした。寂しさはもちろんありますが、笑顔がたくさんありました。まさに卒業式。みんなが卒業を見届けに来てくれました。
きちんと終わるというのは人に笑顔をもたらしますね。最後にお別れが言えるというのは、人の心を整理してくれます。そして次に進めます。卒業式があったおかげで、次に進めます。
この現場は色々な人たちの努力があって成り立っていましたが、色々な人たちが努力できた理由がありました。茅原実里さんの人柄が素晴らしかったからです。全ての原動力でした。何かをすればありがとうと言ってくれる。課題に対してきちんと努力する姿を見せてくれた。スタッフの仕事に対して感謝の念を返してくれる。
素晴らしいスタッフに支えられたと茅原実里さんは言いますが、スタッフを素晴らしくしたのは茅原実里さん自身でした。
2022年から茅原実里さんとしての音楽現場もお休みに入ります。
風が吹かない時は動かない方が良いのだと思います。風が吹いたら動けば良いと思います。
良い風がいつか吹いたら、その時にしっかり動けるように船は磨き上げておきたいと思う次第です。
何事も常に変化しますね。同じ形で同じまま在り続けることは無いものです。必ず変化するので、変化に対応するのが大事なんですね。素敵に対応していきたいものです。
共に歩んだ15年の全てに、そして茅原実里さんという人に感謝をしています。
彼女の新しい人生を応援したいと思います。
皆さんもどうか新しい人生を歩み始める茅原実里さんを応援していただけたら幸いです。
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書いて、そして写真を選んでいたらなんだかもの凄く寂しくなってきてしまいました。でも楽しいことがたくさんあったなと思い出すことも出来ました。
ファンの皆様、スタッフの皆様、関わった全員で作った楽しい15年間でした。
長文読んでいただき、ありがとうございました。
これからも茅原実里さんの応援をどうぞよろしくお願いします。