Vol.2は小学生の前半期の出来事を書きました。さてVol.3は後期から中学生の話を書いておこうと思います。
小学3年生のころ、鉄欠乏性貧血という病気になります。これを直すために薬を何年か飲み続けました。さらに小学校高学年の頃には喘息(ぜんそく)になります。喘息はなかなか完治せず、完全に気にしなくて良くなるまでには10年くらいかかったかなと思います。
喘息の何が苦しいかというと、気管支が閉塞を起こして呼吸困難になるんです。僕の場合は吸うのが困難になるのでした。酸素が欲しいのに欲しいだけ空気を吸うことが出来ない。気管支がどんどん狭くなるのです。普通のストローで楽々に飲んでいたのに、そのストローがどんどん細くなっていくのと似ています。針の穴ほどの細さになったストローで飲み物を飲もうとするともの凄く力んで吸わないといけないですよね。あれの空気Verです。酸素を欲しますから、凄く吸うのです。常時力んで空気を吸うので凄い疲れますし、酸素が足りないので辛いわけです。
気管支が閉塞した時は、吸入器を使います。古い映画ですが「グーニーズ」に出てくるマイキーが時々プシュっとやる吸入器。あれを毎日欠かさず持ち歩いていました。あれを切らすと地獄の苦しみがありますから大事に使っていました。吸入器の薬が切れた時は呼吸困難になるのです。中学高校の部活動の時や、マラソンの授業の時などは必ず喘息が発症するので耐えきれなくなると吸入器で呼吸を楽にする、という日々でした。
つらつらと病気のことを書きましたが、つまり身体が弱かったわけです。幼い頃にスイミングスクールにも通っていたりもして、そこそこ泳げていたので体力はあったはずなのですが。でも色々な病気になりました。鉄欠乏性貧血、喘息、アトピー性皮膚炎、など。全て大人になるにつれ完治していったのですが、幼少期は病気のオンパレードでした。
それを見かねた母が少林寺拳法に通わせてくれました。当時の少林寺拳法のイメージは映画です。「少林寺」という映画シリーズがあったのです。動機としては強くなりたいというより、丈夫な身体にしたいということだったので、格闘技に目覚めるとかそういうことではなかったわけです。少林寺拳法に通っていたのは2年ほどだったように思います。ここで少林寺拳法をやった経験が後の人生の選択肢をいくつか変化させます。
そうして小学校5年になると中学受験のために塾に通うようになります。これは自分の意思ではなく、父の願いによるところが大きかったのです。国公立大学に行って欲しいと父は願っており、そのためには中高一貫校に行くべきであると。
小学生だった自分に人生の選択肢について強い意志はなく、親が言うなら従うというスタンスでした。でも心の中では塾に通うよりも勉強するよりも友達ともっと遊びたいと思っていました。週に何回通っていたかは良く覚えていませんが、割と多い頻度だったと思います。そして夏期講習、冬期講習などもありました。余暇時間の多くは塾通いという時代でした。
当時、中学受験で塾に通う子供は自分の周りは少数派でした。
ある日、母親に泣きながらもう塾に通いたくない、友達と遊びたいと話したことがありました。放課後に友達と遊ばず塾に行くことが多く、それが少しずつストレスだったのでしょう。母は、そんなに嫌だったら塾は辞めても良いよと言ってくれました。それを受けて塾を実際に辞めたかというと辞めなかったのです。僕は母から優しくその言葉をかけられた時、「辞めない」と言いました。自分の悩みや苦しみを母に打ち明けることが出来て、そしてそれを受け止めてくれたことで気持ちが落ち着いたのでしょう。その時の心の動きは良く覚えています。自分の悩みと苦しみを受け止めてくれて嬉しい、嬉しいから期待に応えるように頑張りたい。そのためには多少の苦しみや欲求は我慢しようと思うのです。そういう心の動きでした。この心の動き方は後々色々な場面でも、たぶん今でも、同じです。
結局塾は辞めずに中学受験を終えます。中高一貫校に入ることは出来ました。
病気はどうなったかというと、鉄欠乏性貧血は治っていましたが、喘息は治らず、アトピー性皮膚炎は時々出るという具合。それに加えて謎の腹痛が時々発症するようになります。近所の内科に行っても風邪から来る腹痛だろうと毎回言われます。しかしなかなか完治しません。
その腹痛は中学に入ってから明確に病名が判明します。一ヶ月の入院、その後完治までに10年ほど要するものでした。
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