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斎藤滋の履歴書 Vol.1

投稿者:斎藤滋の履歴書
投稿日時:2022年10月13日

以前から少しずつ書いてみようと思っていた自分ヒストリー。膨大な量になるのでもちろん一気には書けない。5分ブログとは別に書いてみることも考えたのですが、その時間を捻出するのが難しいかもしれない。そこで時間と心に余裕がある時にこの毎朝の執筆時間を使って少しずつ書いてみようと思います。

 
 

日経新聞で「私の履歴書」というコーナーがあります。有名人や著名人の方が自分の人生を振り返る記事です。あんな風になるイメージを持ってまずは書いてみようかなと思います。

 

果ては有料記事にしたりとか同人誌的に自費出版して頒布したりという夢はあるけれど、まずは書いてみないことにはペース感も分からないし、全体像も分からない。ということで書いてみます。タイトルは日経新聞の「私の履歴書」を真似て「斎藤滋の履歴書」にしてみました。途中で変えるかもしれませんが、まずはこれで。

 
 
 

さて、どこから書いたものかなと考えてます。幼少時代のことから書いた方が履歴書としては良いのだけど、果てしなく長くなりそうで怖い気もします。

 
 

まぁなんにしても、まずは書いてみます。

 

1975年に神奈川横浜市で生まれます。昭和で言うと50年です。父は英語が得意で英語を活かした仕事をしていました。母は専業主婦です。物心つく前に父の仕事で家族でアメリカに住んだ数年間がありました。ノースカロライナ州というところです。僕はほとんど記憶が残っていないのだけど兄姉はしっかり英語を習得して帰って来ていました。せっかく数年もアメリカで暮らしていたのに僕は英語はからっきしです。

 

アメリカ在住時の唯一の記憶と言っても良いものがあります。生野菜事件です。3歳か4歳かは覚えてませんが、そのくらいの年齢だったかと思います。保育園的な場所があり、僕はそこに行っていたのです。子供を何時間か預けておく施設だったようなので日本でいうところの保育園的なものだったと思います。

 

その保育園でおやつを食べる時間がありました。おやつだと僕は認識しているのですが、もしかしたら給食的なものだったのかもしれません。そこで出てきたのは生野菜です。記憶がおぼろげですが、生のにんじん、生のセロリ、そのあたりが並んでいたように思います。

 

周囲の子供たちは美味しそうにそれをバクバクと食べていました。僕は和を乱しててはいけないと思ったのか、そうだとしたら実に日本人的なのですが、野菜を生の状態でバクバク食べるということをしたことが無いのに同じようにバクバクと食べました。食べ慣れてない生野菜ですから、美味しく感じません。なんて美味しくないんだろう。そう思った記憶だけは明瞭にあります。しかし周囲の子供たちが美味しそうに生野菜を食べます。

 

僕は当時英語をどうやら話せていたようで、周囲の子供や先生に促されるままに食べていました。しかしあまりにも馴染めず、咀嚼は出来るけれど飲み込むことは出来ない状態でした。でも食べている「ふり」をしないとマズイと本能的に思ったのでしょう。この「場」に仲間として受け入れられるためには「生野菜を美味しそうに食べる」という行動が必要だと思ったに違いありません。

 

飲み込むことは出来ないのに次から次へと口に生野菜を入れていきます。するとどうなるでしょう。ほほにたっぷりと餌を詰め込んだリスのようになります。ほほに生野菜をたっぷり詰め込んだ僕はそのまま時を過ごしました。

 

そのまま時間は過ぎ、母が迎えに来る時間となりました。ほほをみっちりと膨らませて一言も喋らない、いや喋れない僕を見て母は驚きました。どうやら僕は涙目だったらしいです。生野菜を飲み込むのも地獄、人前で吐き出すのも地獄。行くも地獄、戻るも地獄。そんな状態を3〜4歳の子供が数時間(くらいかと思っているのですが、実際はもっと短い時間だったかもしれません)もの間、キープしているわけです。

 

辛いです。書いてても辛いです。生野菜をほほをみっちりと詰め込む修行があるとしたら、それはどんな解脱を迎えるのか分かりません。そこまでして「場」に馴染もうとしたわけですが、馴染めたのかどうかは記憶にありません。今思えばアメリカでは食べられないものは食べられないとハッキリ言える文化があったはずですが、幼少期の自分にはそんなことは分かりません。残さず食べるという教えを受けていたはずなのでそれを忠実に実行していたのだろうと思います。

 

母に迎えられ、車の中か自宅かは覚えてませんが、ほほにギッシギシに詰まった生野菜を吐き出しました。たぶん僕は泣いたと思います。苦しみから解放された安堵だったのか、純粋に苦しみに対する涙だったのかはもう覚えてませんが、泣いたはずです。

 

でも家族の間ではこれは笑い話として語り継がれています。僕も今はもう笑い話として記憶に残しています。こうやって公の場に書けるくらいには。

 
 

今思えばこの、場に馴染もうとする、和を乱さないようにする、そのために自分が我慢をする。というのは自分の根っからの気質から来るものだったと思います。その後の人生でもこのアクションは度々発揮されて、時に自分を苦しめたり、時に自分を救ったりします。

 
 

自分ヒストリーを書くとしたらこのエピソードからだろうと思って書いてみました。この調子で行くと社会に出るところまでいったいどれくらいの時間がかかることやら、というところですが、時々こんな感じで書いてみようと思います。

 

どうぞよろしくお願いします。

 

 


 

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